【中之島ガーデンブリッジ】米が置いてある橋
淀屋橋の回で書いたが、大阪の米市場には、全国からの米が集まった。
大坂の経済を動かした大坂三大市場、いわゆる「堂島の米市場」「天満の青物市場」「雑喉場の魚市場」の「堂島の米市場」である。
中之島には各藩の蔵屋敷があり、淀屋の店頭で行われた米市場は大いに賑わっていたのである。
しかし、どこも米価の変動リスクを回避したいことから、青田買いが発達し、仲買人は千人を超えていたという。
手形(米切手)を売買する市場になっていたのであるが、これは非常に便利であったことから、どんどん市場を大きくしていき、信用創造を市場にもたらしていったのだ。
もちろん、米相場の変動を利用して、その差益を得る「帳合米取引(一種の先物取引)も行われるようになったのだが、これが世界の先物取引の起源である。
米市場の手信号(身ぶりや手ぶり)がシカゴ農産物先物取引所やシカゴ商品先物取引所で行われている手信号による売買と同じものであることはあまり知られていない。
この手信号は、にわかに信じがたいかもしれないが、ドイツ人医師のシーボルトが伝えたともいわれている。
また、堂島の米市場には「旗振り通信」を行うための櫓(やぐら)が設けられていた。
これは何かというと、米価が全国的に重要な関心事であったため、米市でたった米相場を早く国許に伝達するためのものだった。
それまでは専門の「米飛脚」が米相場を伝えていたが、明治初期から、それに代わって「旗振り通信」が行われるようになったのだ。
堂島の櫓から畳半畳ほどの旗を振り、第一の中継ポイントに相場を伝達、それを見た伝達者が第二の中継ポイントに伝達、といったようにリレーをくり返しながら国許まで伝えた。
伝達速度は、堂島から和歌山が3分、京都まで4分、大津まで5分、神戸まで7分、桑名まで10分、広島まで40分だったと言う。
もしかすると、探偵ナイトスクープ案件かもしれない。
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