【淀屋橋】地名であり橋名でもあり屋号であり

おおよそ月2回の連載を始めよう。
まずは私が愛して止まない淀屋橋から。

土木に携わる前から抜群の存在感で筆者を魅了し続けるこの橋は、大正13年にすぐ北にある大江橋と共にデザインコンペが行われ、昭和5年に架けられたものである。

少年の頃、「淀屋橋」は地名であり、御堂筋はただの道路、まさか橋とは思ってもみなかった。ある日、「淀屋」と「橋」に分けて読むんだ!
と少年にとっての大発見があった。
「心斎橋」も「心斎」の「橋」なんだ!
どうやらその頃から、橋名の由来や郷土史に興味を持ち始めたらしい。

さて、淀屋橋。前述の通り淀屋の橋である。
江戸や京都には幕府直轄の「公儀橋」が100橋を超えて存在していたのにも関わらず、大坂には公儀橋は12橋しかなく、浪速八百八橋と言われた橋の多くは商人たちによって架けられた町橋であった。

さすがは米市場、青物市場、ざこば(魚市場)を開き、手形取引を始めた淀屋である。
大名貸しの額も実に200兆円。
あまりに多額になった淀屋からの借入金を諸大名が返済できないと見た幕府は、商人の分際で浪費三昧、風紀を乱すことはけしからん!と、淀屋の財産を没収、追放、借金は帳消し、しかも淀屋の溜め込んだ金銀で財政を潤わせようと考えた。

取り潰しの動きを察知した四代目淀屋は番頭に暖簾分けをし、鳥取に商売の一部を逃がしていたが、ほとぼりが冷めると大阪に戻り、堅実な商売で復活した。

そして幕末。
諸説あるが、1859年後期淀屋8代目当主淀屋清兵衛は全店舗を突如閉め、全財産を換金。
金はすべて朝廷に献上し、淀屋は姿を消したのである。
そんなことを思いながら眺めるのも、なかなかいいものである。

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