(モノ)九州の石造文化

皆様は、ご家族、友人に土木の話をしているだろうか。
土木の話をしたくても、一般の方が面白いと思うネタは限られるだろう。
今回は、土木技術者が身近な人に伝えたくなる「土木構造物の話」をしたい。

阿蘇の大噴火により、強く加工しやすい岩石(溶結凝灰岩、ようけつぎょうかいがん)が豊富な九州では、「石」が暮らしを支え、豊かな文化を育んできた。
国東半島の石仏、熊本城の石垣、そしてなんといっても九州各地に遺る石橋がその代表選手といっていいだろう。
九州人にとって普段の暮らしの中にあるこの石橋だが、九州以外にお住まいの方には知ってはいても身近なモノとは言い難い。

現在わが国に現存する石橋は約二千橋、九州にはそのうち約千八百橋、実に全体の9割の石橋が九州にあるからだ。
それでは、なぜ、それほどまでに多くの石橋が九州に遺されているのか。
それは、石造アーチ橋の設計技術の核となる円周率計算の達人と名石工とのドラマティックな出会いから始まる。

長崎奉行所に勤める若侍、藤原林七は、大変好奇心旺盛だったようで、
一五〇年前から長崎に架けられていた石造アーチ橋に強い関心を持った。
そこで、出島にいたオランダ人からその理論を聞き出し、頭脳明晰であった林七は、
アーチ作用、その基礎となる円周率の計算を習得したといわれている。

ところが、外国人と交流を禁じられていた鎖国の時代、林七は肥後に逃げ隠れ、八代干拓事業を担っていた石工宇七と出会うこととなる。
加藤清正が熊本城を築城してから一七〇年後の一七八七年、林七22歳のことである。
運命的な出会いにより、数学の天才林七は、名工宇七から石の加工技術を学び、宮大工の技にヒントを得ることで独自の石橋構築技術を完成させた(といわれている)。
野津石工宇七の子といわれる岩永三五郎の作品には「甲突川の五石橋」(鹿児島)、
種山石工林七の孫といわれる橋本勘五郎の代表作品には、「通潤橋」(熊本)、万世橋(東京)がある。
石橋の歴史に興味をもったら、ぜひ林七の墓の横にたつ石橋の博物館「石匠館」(熊本県八代市)を訪ねることとお勧めしたい。

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