【大浪橋】木津の勘助

大阪の偉人といえば、土木では行基・河村瑞賢・岡田心斎・成安道頓らであろう。
市民のために大きな寄付をしたのは住友友純や岩本栄之助になりそうだ。
そして、庶民の救済に立ち上がったヒーローと言えば、大塩平八郎や木津の勘助が浮かぶ。
今日は木津の勘助についてのお話。

木津川の浚渫や堤防を築いて当時の姫島を開拓したのが木津の勘助(中村勘助)である。
姫島に豊臣家の軍船係船所を建設したり、堤防を築き田畑を開発した勘助の功績によって、姫島は「勘助島」の名が与えられた。現在の大正区三軒家あたりになる。

スター性のある話は大きく盛られていることはご容赦いただけるものとして書いてみよう。
木津勘助は1641年の飢饉に際して、自らの財産を全て人々に分け与え、それでも困窮にあえぐ人々のため、手下300人を引き連れて筑前黒田藩の米倉を打ち壊し、皆に配ったのである。
しかもこの米は大坂の大商人、天王寺屋に売られたあとのもので、天王寺屋からすれば微々たる損失、襲われた黒田藩も実害は無かった。
このことから、捕えられた勘助は「本来なら死罪のところ、流刑とする」とされ、勘助島に流刑とされた。
川の向こうに流刑とはいえ、実際にはすぐそこ、自らが拓いた地にただの引越した程度の話である。
出来すぎた話ではあるが、今も天神祭のお迎え人形に木津の勘助があるように、木津の勘助といえば大阪人にはヒーローなのである。

勘助島と難波島(現在の浪速区木津川)を結ぶ橋がこの大浪橋である。
橋の大正区側には「わたし 勘助島」とあるのだが、「勘助島の渡し船」があったのがちょうどこのあたりになる。
現在でも大阪には8箇所の渡しがあり、自転車ごと乗船でき、無料でもあることから大切な住民の足となっている。
船を乗り継ぎ、のんびりと湾岸地域をサイクリングなども気持ちよさそうだ。

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